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思考散逸

ネットの宇宙の片隅の論理と思考の実験劇場

不謹慎ってなんだ

時事 KYでいこう

GWということで、ぼちぼち『大逆転裁判*1のリプレイ進めています。EDまでいったら終わってない宿題に手をつけるつもりです。
宿題とは当然これの続き↓

nyanmage00.hatenablog.com

 

 …まあ発売して一年近くになることだし、今更だよなあ、本気で誰も得しないよなあと自分でも思いますが、たぶんこれが終わらないうちは自分が気持悪いので誰得方向に向かって突っ走ろうかと。

逆に今だからネタバレを気にせず書ける事というのもある気がします。発想を逆転させるのよナルホドくん。


実は頭の中で骨子はほぼ固まっている為、プレイを楽しむというより答え合わせ的確認作業になっていて、大体『大逆裁』自体3週目か4週目ともう大概なので進行は遅々としていますが、それでも時々くすっとなる軽妙な言い回しは流石タクシュー節。タクシューさんは何も考えてないと思しき部分はすごく生き生きした語り口になってそこが魅力なのですが、ちょっと拘りが出てきちゃうと変な力みが入ってくるなあというのが現在の率直な感想ですねえ。この辺はもろ宿題にからみますのでまた後日。
あと、前から思っていましたが『大逆裁』は歴史小ネタがおもしろいです。余力と暇があったら宿題のあとにまとめるかもしれませんがこの辺はあまり自信ないです。前科があるだけに。
一応宿題のほうは提出期限6/8(逆裁6発売日前日)と勝手に決めました。だってやることやってすっきりした頭で新作楽しみたいじゃないですかッ!


逆裁関係の前置きここまで。
今回のお題:今まで扱ってきた娯楽・エンタメ以外の事柄について何か書く。
「イッタいねえっ!」と罵倒される程度の内容なのでそういうのダメな人は読まずにスルーお願いします。
あ、今回から「KYでいこう」タグ追加しました。ご承知置きください。

 

昨日非常に興味を引かれた記事です。↓

toyokeizai.net


ネット特有の「正義感からくる炎上」について、かなり突っ込んだ分析がなされて面白かったので、少し引用します。

ネット炎上のほとんどのケースが、全く自分が被害者ではないのに、第三者の振る舞いや行動に対し、腹を立てて、制裁を加えようとする「Third party punishment」(非当事者による制裁)といわれるものだ。


非常に的確な指摘だと感じましたので、興味のある方は是非リンク先を参照されることをおすすめします。「悪人に制裁を与えることは哺乳類の中で人類にしか見られない、本能的欲求である」「炎上は極少数のユーザーの扇動によって簡単に起こる」等、大変参考にさせていただきました。

 


さて、引用記事タイトルにもある通り、現在一番の世間的関心事は熊本地震でしょう。
私にも現地の人達を心遣う気持はあるのですが、できる範囲で何か役に立つことができるかといえば、私には何もできません。募金箱へのささやかな喜捨が関の山です。
といって、天災について何か書こうとするにはあまりに知識が足りません。私には被災した経験も、現場を直接見た体験もないからです。こんな人間が無理に何か書けばトラフィック負荷を上げるだけに決まっています。
こういう時に説得力を持ち、何かの参考になりうる事があるとすれば、それは実感を伴う個人的体験だろうと考えたので、あえて直接関係ない自分語りに入ります。イタイです。KYでいこう。


私は23の時に母を亡くしました。
母は事情で生家に身を寄せていましたが、あまりに唐突な死だったので私には心の準備をする暇もなく、親戚に急かされるままにただ葬儀のために慌てて新幹線で帰省しました。
その時の私は夢にも思わなかったのです。まさか自分たちが一週間も現地にとどまることを要求され、後始末のために家族共々生活のすべてを一時放棄するはめになろうとは。


私の出身地はとある県庁所在地ですが、母の生家はそこからさらに離れた農村部にあります。
昔ながらの習慣や近所付き合いが色濃く残る地域で、葬儀は隣組が仕切り、自宅で行うのが伝統的なしきたりだそうです。
子供の頃遊びに行ったことがある程度でそういった地方の習慣に全く予備知識がなかった私は、親戚を名乗る見知らぬ人々に葬儀の円滑な遂行のため様々な要求を受け、困惑しただただ疲弊しました。


不幸にして母の生家には母と、認知症の祖母の二人しかいませんでした。母の肉親で責任能力があるのは子供たちだけ、中でも当時成人していたのは私しかいませんでした。
前年に離婚成立していた父には法的に葬儀に対し一切の責任のないこと、何ら関わるつもりがないことを主張されました。もっともだと思います。私の負担は軽減されませんでしたが。
私は、ただ親戚のいうがままに母の実子として理由もわからぬまま善意の人たち、隣組やら寺やら農協やら病院やらの見知らぬ人々に頭を下げ続け、祖母の金で毎夜飲んで騒いでいる人達に酌を強いられ、泣くことすらうるさいと止められたのに女であることを理由に喪主にもなれなかったのです。喪主は夫が務めました。夫にも迷惑千万だったと思います。
今にして思えばしがらみなど蹴り飛ばしてとっとと荼毘に付し、有無を言わせず帰省を切り上げこちらで葬儀を執り行えばよかったのですが、当時23の小娘にそこまでの知恵と強さはありませんでした。つくづく無知は罪です。逆裁3の犯人のように。


そんな非日常に疲れ果てた頃、たまたま夜に入って自由時間が取れる日がありました。帰省中自由時間がないというのもおかしなようですが意外とよく聞く話でもあります。
国道沿いにガストがあることを知っていた私は徒歩でそこへ向かいました。ガストなんて金がかかる、食事なら我々が提供しているじゃないかと親戚の中にはいい顔をしない人がいたような気もしましたがきっと気のせいです。
JRで帰省した私たちには車がなかったので夜の道を30分ほど歩き、見慣れたガストの灯を見たときの感動は今も忘れません。あの時食べた目玉焼きハンバーグは生涯で一番おいしい目玉焼きハンバーグだと断定できます。

非日常の連続の中で日常とつながる風景を見たときのなんとも言えない安堵感、心から安らいだ時の涙がでるような感覚。

人は本当に困ったときにはただ日常に帰りたいと思うものなのだと思います。


…ということで自分語り終わり。イタイってなんだ。


話は「不謹慎」に戻ります。
「本能的欲求なら不謹慎叩きもしょうがない」と見る向きもあったようですが、ここはあえてKY視点から物申したい。

発想を逆転させるんだッ!
「不謹慎」だから叩かれる、ならば「不謹慎」が不謹慎じゃなくなれば良いのです。


喪中に目玉焼きハンバーグ食べたいなどとぬかす小娘はそりゃもう不謹慎の極みで親戚一同から総スカンを食らうのは当然だろうと大人になった今は思いますが、だって食べたかったんだからしょうがないじゃん?
23の小娘としては炊き出しはありがたいよ、でも漬物ばっかじゃあきたよたまには肉だって食いたいよ、自腹でガスト行ってくるのが何で悪いってんだよゴルァともやはり今にして思います。
私たちにとっての「被災者」、または彼らに代表される現在進行形で困っている人達の多くとは、私たちは実際には直接会うことなく、映像や写真で間接的に情報を得ることしかできません。
彼らが自分達と同じ人間だということ、同じように心を痛めることもあれば同じように欲望を持つことも当然だという考え方は、意識しないとなかなか難しいものがあります。
だからこそ、見えない地雷を踏まないように、「不謹慎」と指さされぬように自己防衛します。

 

しかし、そこで「不謹慎」のまま思考停止することは果たして正しいのか?

そもそも不謹慎とは誰に対して不謹慎なのか?
対象が被災者であるなら、彼らは今何を思っているのか?
どんなことに対して困っているのか、今どんなことを欲しているのか、それはきちんと「人間としての生の声」の形で届いているのか?
発言が自分たちにとって美しく見えるように偏ることを、私たちは無意識に期待してしまっているのではないか?

 

あの日人目を気にしていたら目玉焼きハンバーグを食べ損ねる所だった私はそんなことを考えます。*2

 

そして、本当にささやかながら筆を持つ人間の一人として、画面の向こうにいるのが自分と同じ「人間」であるということを常に自戒しなくてはいけない、と強く思います。
その上で、ガストに行きたい人を咎めるよりは、彼らのために車を出すことの出来る大人になりたいとも思います。


…真面目に書いたら肩が凝りました。
国道沿い・ファミレス・車の三題噺で最近おもしろかった小説はこれ『ここは退屈迎えに来て』↓

 

ここは退屈迎えに来て (幻冬舎文庫)

ここは退屈迎えに来て (幻冬舎文庫)

 

 


私みたいな地方出身者には刺さりまくります。そうでない人にはピンと来ないかもしれません。

ゆうこの話が一番好きです。バケツ三杯泣いた。

*1:長いので以下『大逆裁』で。このソフト、『逆裁』みたいに定着した略称ってあるんでしょうか??

*2:どれだけガスト推しのハンバーグ好きだよステマかよと突っ込まれそうですが、普段一番利用するのはサイゼリアで柔らか青豆の温サラダが好きです。もちろんサイゼリアの回し者でもありません。