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思考散逸

ネットの宇宙の片隅の論理と思考の実験劇場

プロであることの自己矛盾~おそ松にみる抑圧からの解放とその可能性

まずはご挨拶です。
このブログを「逆転裁判」関連サーチで飛んで来てくださる方が多いようなので、申し開きしておかねばと思うのですが、『大逆転裁判』関係のまとめはそのうちきっとやります。
というか、これだけ間が空くとですね、内容忘れました。リプレイしてからでないときっと何も書けないと思うので時間がかかると思います。でもポンコツホームズは大好きです。なのできっとやります。6月には『逆転裁判6』も出ることですし。
ただ、《前編》とはかなり切り口が違うざっくり記事になる予感だけはゆんゆんします。ご了承ください。

ここから本題。今回も『おそ松さん』です。

前回記事補足。

 

nyanmage00.hatenablog.com

 完全フィクションに決まってるじゃないですか(真顔)

 

…といいつつ、あれはヒットを狙って意図的に投下された商品ではなかった。そこだけは確信をもって言えます。
私自身もモノづくりに携わる人間の一人ですが、『おそ松』には狙って制作したにしては整合性の取れない箇所が散見されます。
通常いわゆる「セカイ系」的作品(純文学要素強めの作品群)は序盤に精密な配置構成をとり、構成のブレはスケジュール悪化あるいは破たんする後半~終盤に集中するのが普通です。*1

 

『おそ松さん』はギャグに見えて実は人物描写もしっかりなされているという稀有な完成度を誇る作品ですが、特筆すべきは序盤に構成のブレが集中しており、後半になるにつれシナリオから作画まで一糸乱れぬ統率を見せる事でしょう。まるで週刊連載のようです。通常とは逆に、話数進行とともに全体的な創作ボルテージが上がっているのです。*2

 

TVシリーズアニメーションにおいて、スケジュール悪化を推し量る一番簡単な目安は作画人数、特に作画監督の人数が増えた場合です。劇場アニメなみの人数が投入された場合「豪華」と受け取る向きもありますが、実際には「どうやっても放送までに終わらないので数を応援に頼んでいる」場合がほとんどなのです。
1話から作画監督二人体制を見せる『おそ松』ですが(1話はF6パート作画のためでしょうが)、中盤9~18話では3~6人と異常な数になります。最終話では作画監督の数なんと8人!私はTVシリーズでここまでの人数を寡聞にして知りません。現場は相当過酷であったのでしょう。いわゆるデスマーチ、通常なら納期までに仕上げるのが精一杯であるはずです。
しかし、実際には後半になればなるほど内容は濃くなっていきます。直接語られる物語の外で、作画が独立し自己主張しだします。小ネタが効いている箇所が多くなり、画面上の小物がいちいち笑いを誘ったり、あるいはシナリオを間接的に説明する「隠喩」の役目を果たしたりします。

 

作画に絞って24話「手紙」の内容を見てみましょう。シナリオに直接関係ない小物はまず「今川焼」「熱海のパンフ」が挙げられます。それぞれ7話「4個」10話「レンタル彼女」に対応し、彼らの日常、怠惰で平穏だった過ぎ去りし過去の日々を知っている視聴者はこのあたりでこみ上げる涙を抑えることができません。
24話の作画監督は3人。比較的安定したスケジュールだったのかもしれませんが、これらの小物の投入を指示した誰か(演出か作画かわかりませんが)も指示されて実作業にあたった側も実にいい仕事をしたと思うのです。そしてこのエネルギーは、いわゆる仕事、いわれたことをただ業務としてやった場合には決して生まれないものであると私は知っています。

 

私は先に終了したwebラジオ「シェーWAVE おそ松ステーション」を欠かさず聞いていました。内容もさることながら出演声優陣が口をそろえて「自由に演じることが許された」「ただ楽しかった」と言っていたことを実に興味深く思いました。
職業全般について言えることですが、本来目指していた目標があったのに「職業人であるがゆえの制約に縛られて本当にやりたいことができない」自己矛盾というのは誰しも抱えるものだと思います。
私も含め、モノづくりに携わる者の大半が抱える悩み、自己矛盾は「プロならどんな案件でもそれなりに売れる水準(商品)に仕上げる」=「自分の表現欲求を開放する機会に恵まれない」ということに尽きます。
『おそ松』の成功のポイントは、先に「ある程度の売り上げを見込める布陣」=「人気声優の投入」を敷いておいて、「これでいいのだ」「(なにやったってって)平気だよ、(赤塚先生は)だいぶ前に死んだから」とスタッフを「プロ=商品製作者」という抑圧から解放し、一介のクリエイターに戻して一から作品を作る機会を与えた、という点にあると思います。
つまり、マーケティング論とは話が逆なのです。『おそ松さん』のなにがすごいって、あえて商業制作のセオリーを外したことによって「抑圧から解放されたクリエイターたちの喜びとエネルギーが生んだ狂気のメガヒット」に思えるのです。
先の演出・作画陣のやりすぎといえるぐらいの小ネタ投入にはプロという枠を外されたことにより、自由にアイデアを出せる表現者、モノづくりの原点に立つ者の喜びが凝縮されています。
彼らが純粋に「自分たちの信じる面白いもの」をお客様に投げつけ、それをお客様が受け止めてくれた時、彼らの狂喜はいかほどであったか。終盤の過熱ぶり、特に「燃え尽きた」25話のグランドフィナーレはそれを物語るかのようです。

 

セカイ系に見えなくもないんだけどやっぱりギャグ」という、頭カラッポのまま感性で楽しめるのが『おそ松』のいいところだと思いますので、本当は解説など下種で野暮ですが、私はセカイ系としての主題は現代版『新世紀エヴァンゲリオン:世界の中心でアイを叫んだけもの』と見ています。
エヴァ』は「ぼくはここにいてもいいんだ」と謳いつつ、前後の描写があまりに不安を呼ぶものだったために多くの人に誤解された不幸な作品だったと思いますが、『おそ松』はアカツカイズムに浸食されたためにどこをどう切り取っても「これでいいのだ」とあくまでポジティブに、楽しくとしか受け取れません。
そんな『おそ松さん』が「クズでも自己責任で生きていければそれでいいのだ」というメッセージを発し、たくさんの若い人たちがあまりはっきりとは意識しないまま、作品まるごと愛し受け入れ喜んでくれた事実は、それほど理想的でなくても今とは違う未来の予感、「福音=Evangelion」なのかもしれません。
そして、それは名無しでモノづくりに携わる私たち、多くの無名の職人たちにとっても「福音」であり、「希望の星」なのです。*3

 

…あまり長く語りすぎるとイヤミ先生に「さっきからチミは何も生み出してないザンス。薄いコメントで場をつないでるだけ。わかってるようで何もわかってない」などと罵倒を受けますので、今回はこの辺で。
おそまつさんでした。

 

(5/1追記:内容がわかりづらかったためにタイトルの一部を変更し、本文を少し修正しました)

*1:代表的な例がかの『エヴァンゲリオン』でしょう。『少女革命ウテナ』も完成度の高い作品ですが、やはり打ち切り決定後の終盤展開にやや強引さを感じます。なお、『ウテナ』は劇場版『アドゥレセンス黙示録』がよりまとまっていて好きです。

*2:一番ブレを感じたのはカラ松です。2話「就職しよう」5話「カラ松事変」では「イタイ通り越してサイコパス」なうえに空気でヘタレだった彼が24話「手紙」のキーパーソンになるまでに変化を見せます。恐らく10話「イタイってなんだ」がターニングポイントであったと思うのですが、比較的丁寧に描写されていたチョロ松トド松の二人に比べどうにも唐突というか、変化の方向性が統一されていないように思います。想像ですが、脚本の松原さんがシナリオを書きながら手探りで「(イタかろうがなんだろうが)カッコイイってこういうことだ」という究極ナルシスト、カラ松を探り当てたのでしょう。事実24話の彼は誰が何といってもカッコイイです。

*3:非常にどうでもよいことですが、脚注2の書き方だと私の推しがカラ松な誤解を受ける気がしますが実際はカラ・チョロ・トッティが三者三様に好きです。希望の星、トド松。この場面をド下ネタに仕立てるあたりもさすが。ああトッティ。おおトッティ